50周年記念パーティー: 4人の先生方のスピーチ録
50周年記念パーティーにおいて、懐かしい先生方よりスピーチをいただきました。ここではその内容をご紹介します。
道家 達将先生
皆さん、こんなに大勢来られて、今日はおめでとうございます。
私は永井道雄氏や皆さんと一緒に社工の生まれるときに、みんな元気で生きておりましたので、一緒で頑張っております。私自身は現在90歳でございます。 同期の永井道雄やその他は、きっとどこかで皆さんのことを見ていると思うんですよ。本当に社工というところはできた時から、東工大としてはまことに素晴らしい一つのセクションでございまして、永井道雄が一生懸命にこのコースを作っていたことを、私は忘れておりません。 今日のようにこんなにたくさんの人が、しかも社会的に大活躍をしながら集まって来られるというのは、私は素晴らしいことだと思います。どうぞこれからも大いに東工大におけるこの研究集団が、世界の流れで大きな仕事を発展させて下さることを期待しております。永井道雄も喜んでいると思うんです。どうぞひとつよろしくお願いします。 |
梶 秀樹先生
皆さん、こんにちは。私は、昭和49年から56年まで社工の教官を務めたのですが、実際には53年から56年まではAIT(アジア工科大学)に行っておりましたので、4年間しか教えませんでした。そのために、私の研究室の卒業生というのは14人しかいないんです。大勢だと集まるのがなかなか大変なんですが、14人だと非常に仲が良くて、毎年集まって、今でも14人が忘年会に来ています。ところが今日は一人も来ていない。ただ、昔の人に会いまして、懐かしい顔がいっぱいあります。何十年ぶりに会った諸君もいます。
社会工学がなくなって大変残念なんですが、社会工学的な考え方というのはいろんなところで通じています。私は地震工学の防災が専門なんですが、地震工学会というのに入っています。一番最初に行った時、私の論文なんてどこで発表したらいいか分からなくて、「その他」だったんですが、今は、構造や地盤などのセッションと横並びで、「Socioeconomic Issue」とか「Human Behaviour」というセッションがあったりして、こうした社会工学的な考え方が広まっております。 皆さん、各分野で活躍の場はあると思いますので、頑張って頂きたいと思います。今日は50周年ですが、またこれからますます頑張りましょう。 |
中村 良夫先生
みなさん、こんにちは。中村良夫です。
私は昭和51年3月1日に東工大へ赴任いたしました。春の辞令は4月1日が常識でしょうが、私の恩師の鈴木忠義先生から「3月1日に赴任せよ」と厳命を受けたのです。その趣旨を忠義先生に聞いたら、理由は非常に簡単で、「1か月は助走期間である、4月1日から全力疾走しろ」と言うことでした。あの頃の社会工学を思い出すと、皆さんの心意気が高かったのだと、つくづく思います。 今回、50周年記念誌が会長さんから数日前に届き、読ませてもらいました。大変感銘を受けました。50年というのは、短いようで長いですね。今年は明治150年ですから、近代化が始まって3分の1に相当します。50年の蓄積は間違いなく将来に役立つと思います。ぜひその間の論文や梗概集をしっかり資料として取っておいてほしいと思います。社会工学の遺伝子の宝庫ですから。 もう一つ申し上げたいのは、社会工学が幕を閉じてしまったというのは、一面では確かにそうかも知れませんが、私は皆さんが元気で活躍している限り、社会工学は終わらないと思います。私の同僚で早くお亡くなりになった渡辺貴介先生は、萩の松下村塾のことに関心をもっていましたが、松蔭の叔父の時代から通算しても、開いていたのはわずか15年くらいでしょう。そこから育ったおおくの俊秀が明治という時代を動かし、身を呈して近代日本の礎をつくりました。それを考えると、社会工学の皆さんがこうやって元気で活躍なされば、必ず社会が変わるし、またそこから新しい芽が出てくるし、実際そうなっていると思います。ですから社会工学がいったん姿をかくしても、その遺伝子から再生するという考え方もあるし、卒業生のみなさまの中に、現に生きているという考え方もあるわけです。 ぜひ、そういう考えで、頑張ってほしいと思います。 |
矢野 眞和先生
こんにちは。私が本学を卒業したのは51年前でございます。51年前ということは、私が大学の4年の時に社工の1期生が2年になるという、新しくできた社会工学が動き出した頃です。私は経営工学ですけれども、自分の専門領域よりも、阿部先生の経済学だとか、永井先生だとか川喜田先生の授業を熱心に出ておりまして、そのこともありまして、社会工学ができた時は「早く言ってよ!」というのが、私の正直な気持ちでした。1期生が社会工学で勉強できるということを大変うらやましく思ったことを思い出します。
私は卒業して自動車会社に勤めるんですけれども、社会工学の夢が忘れられずに、三ヶ月経った時に会社を辞めることに決めまして、社会工学に戻ろうと決心しました。決めたんですけども、その前に阿部先生にお手紙を書きましたらお返事がありまして、助教授の原先生に会って相談するようにという手紙でした。夏の暑い日に原先生に初めてお会いしました。社会工学を勉強したいんだけれどもどうすればいいかということで、私は研究生だとか大学院ができたら行きたいとか、学士編入することを考えていたんですけれども、「矢野さんは勉強したいと言っているようだけれども、助手になったらお金がもらえて勉強もできますよ」と言われまして(一同笑)、びっくり仰天の転回になり、私は社会工学基礎講座の助手として着任しまして、会社を辞めることができました。 ちょうどそのころに川喜田先生が移動大学を発足させまして、私は川喜田先生を学生時代から大変尊敬いたしておりましたので、一期生の岡部さんにくっついて、移動大学の発起人になりました。移動大学に三回ほど参加させていただきました。私は川喜田先生から「言葉の組み立て工学」というものを大いに学びました。同時に、社会工学からは言葉をどうやって数字にするかということを学びました。そして、数字をどうやって組み立てるかという統計学の基本を学びました。数字を組み立てた後、今度は数字を言葉に変換しなければいけない。いかにして数字を解釈し、言葉に変えるのか、ということを学びました。そうすると川喜田先生のところに戻ってきまして、変換した言葉をどうやって組み立てますか?という話になる。言葉と数字の組み立て工学をぐるぐるぐるぐる回すということを体験して、極めて重要な問題だということを自覚いたしました。 同時に、ちょっと長くなりますけれども、阿部先生の経済学と、原先生の社会学を教えてもらいました。そこで分かった気がしたのは、経済問題は社会学的に考え、社会問題は経済学的に考えるのが良いのではないだろうか、ということでした。そうすれば、問題は解決しなくても解決の糸口は見つかるんではないかということで、経済と社会をぐるぐる回るという回り方と、言葉と数字をぐるぐる回るという回し方を、実は助手の6年間で学びました。この二つが私の人生を大きく築く力になり続けています。その後、社会工学科に再び戻りましたけれども、その2つのことを教えようと思って教えてきたつもりですが、伝わったかどうかはかなり怪しいです。怪しいおじさんがいるというくらいの印象しかなかったのかもしれませんけれども、社会工学は私の人生にとって大変な影響を与えて頂きました。 その私の愛する社会工学科がなくなるということで、私はびっくりしました。「なぜなくなる?」と、皆さんがどのようにお考えになっているか知りませんけれども、学科がなくなるというのは大学の歴史上、そうある訳ではないんです。あるのは造船工学がなくなったとか、繊維工学がなくなったとかいう形で、社会での需要がなくなっていく時になくなるわけです。社会工学は社会の需要がますますある訳です。ますます需要のある社会工学がどうしてなくならなければならないのか。(会場から、「そうだ」の声と拍手)社会の需要はますます高まっていくにもかかわらずなくなっていくというのはどういうことなんですか。それは、一つの逆説的必然だと思うんです。というのは、全ての学問が社会工学化しているからです。(会場から拍手)すべての学問が社会工学化することによって、社会工学的発想が広く浸透したことが、社会工学科という一つの組織を必要としなくなった理由ではないか、というのが私の解釈です。そのことを皆に言いたかったので、今日ここに来ました。(拍手)東京工業大学が東京社会工学院大学に変わる時に~そういう時が近くに来ている~その時に、TITはMITになれる。社会工学科は、組織としてはなくなったかもしれませんけれども、新しい社会工学という社会の流れをリードするのが皆さんの役目です。この新しい変化をどうやって皆さんがリードして作っていくのか、その実践が皆さんの使命であり、宿命であるという風に思い、そのことを伝えたくて、言いたくてここにやって来た次第です。ご清聴ありがとうございました。 |